鬱で凡愚なド外道のリハビリraki6104’s blog

日々の雑談を、余裕のある時に、できるだけ(´・ω・`)

シェアすべきは…

 昨日の晩は急に冷えた上に、親しい友人の訪問もあって、仲間内で評価の高い立山酒造の『銀嶺立山(本醸造)』を酌み交わしながら、一升瓶を二人で空けてしまった(クリニックの先生いわく、アルコールは鬱の薬と相性が悪いとの事)せいか、今日は気候的に良いにもかかわらず、ちょっとブルーな…鬱の膜が脳をすっぽり覆っているかのような感覚です…orz。ま、それでも、こうやって更新しているわけですから、随分と鬱自体は軽いのだと思います…多分(笑)。

 昨日は、未だ『国債を刷れ』の呪いか加護かが残っているせいで、やはり、あの一冊を読んで気付いたことの話になりました(きっちり、友人に昨日『国債を刷れ』は没収されました(笑))。政界に経財界、そして官僚などの公務員、マスコミや労働組合など、およそ、その総体としての行動原理が、現在、本来の彼らの存在意義や理由と、その実際の、いわば彼らがその能力の多くを傾注して築き上げた現在のビジネス・モデルとが、実際には乖離してしまっていることが我が日本国での大きな問題の原因である、という話を酔っ払いながら昨日はしました。

 彼ら、私がよく「一部特定勢力」と呼ぶその勢力の浸透を受けた、或いは、自ら望んでそれを受け入れた人々が比較的、そして明らかに多いこれらの組織や集合体は、実際の、各々のその存在理由とその目的はただ一つであり、本来、国民による国民のための組織や集合体であって、必然的に、我が日本国民全体の利益である国益を尊重すべきこと、であることは間違いありません。現在、彼らが我が日本国での数ある問題の原因であるのは、つまり、彼らのビジネス・モデルが国民や日本社会に貢献することではなく、あくまでも、自己の保存とその身分の保証に走る…つまりは、我が日本国というシステムに寄生して、より多くの利益を日々国民から搾取し続けているためです。

 その個人個人で見れば、確かにそうではない人物も存在していることは確かなのですが、一方で、その多くは、やはり互いに談合することによって共産主義社会の官僚の世界のように多くの無能な、しかし、欲望だけはきっちり人一倍の腐敗した人々を輩出しています。人は、ただでさえ楽をしたがる生き物ですが、より欲望に忠実な人間ほど、そして閉じられた社会に生きる人間ほど、その傾向は顕著に現れます。彼らは、談合という行為そのものによって、自らを一般国民社会とのつながりから隔絶、差別化し、中世の昔ながらの一種の貴族社会ともいうべき、搾取される国民と搾取するだけの貴族階級のような古い秩序を現代に蘇らせているわけですね。

 よく、世間一般でいわれているように、



情報を制するものは世界を制す



といいますが、彼らは、互いの情報を操作…伝えたり、隠蔽したり、歪めたりすることで、今まで、我々日本国民を自らの都合良いように世論誘導し、そして互いに騙し合い続けてきたわけですが、しかし、それはまた、その閉じられた世界の中で彼ら自身の極度な堕落をも招き、自らの劣化をおしとどめる術をも同時に失うことにもなりました。競争原理の働かない談合というシステムの中で安穏とした結果、ネットによって情報の自由化、一般化がこの日本社会にもたらされ、結果、日々その中で情報の精度を磨き上げ続けたネット・ユーザーらには、もはや、古い腐敗した体質だけを受け継いできた彼らでは対処や対抗ができなくなったわけです。

 それはまた、彼らが、いかに情報そのものを独占せんがため、この彼らに都合の良い利己的な社会状況を作り上げ、また、いかに我々日本国民が、実際は、日々確かな情報にどれほど飢えていたかの現われでもあるでしょう。そして、本来ならば、彼らを我々日本国民が常に監視し続けるはずであったその術を、どれだけ巧妙に、彼らが今まで奪い続けていたかのその証でもあるわけです。今また、いちネット・ユーザーの告発ともいうべき、あの『国債を刷れ』の出版によって、彼らが必死に作り上げてきた彼らだけのためのこれまでの日本社会が、ゆっくりと、しかし確実にその化けの皮が剥がされるときが来たわけです。恐らく、醜い責任の押し付け合いが展開され、また、混乱が生み出されるのでしょう。

 その面から見ても、一度、現在のマス・メディアというものは崩壊し、そして、再度構築し直すことを求められるのでしょう。現在の彼らの歪んだビジネス・モデル…欺瞞によって自らのその価値を誇大に見せかけ、日本社会や経済というシステム中ではその集約機関に過ぎない、自己のその身分を保証する上での権力や権威、そして、実際に提供されるリアルな金銭に向かって媚びへつらうだけの、真の情報の消費者たる我々日本国民の方を、真のお客様を省みないその誤った姿勢を正すことから始めなければなりません。実際に、彼らの提供するその活用度の低い情報レベルでは、とても、彼らのその馬鹿高い人件費には見合ってはいません。コストの割りにその質が劣悪で、受け手側にリテラシーなどの後処理が必要な粗悪なものばかりなのです。

 彼らは、あの悪名高い「記者クラブ」などに見られるように、結局、自らの自分勝手な都合しか見ておらず、実際に、現在我々日本国民が欲しているその情報のレベルの高さに必要な手段の、そして情報ソースの多様化にはもはや応えることが物理的に出来ないのです。以前にも書きましたが、彼らに必要なことは、その馬鹿高い人件費を維持するためだけの今のビジネス・モデルではなく、今や単純に、商品である情報そのものに携わる物理的な人手が足りないだけの話です。つまり、必要とされているのは、高い人件費を維持するためだけの単なる組織のダウンサイジングではなく、堕落によって引き起こされたその個人の能力の低下を、多様な価値観と視点、そしてそれらを保証し補強するための物理的な人手、マン・パワーの増加が必要とされているのでしょう。ま、いまどき、ろくにネットで「検索」すら出来ない記者は、もはや必要のない時代なのでしょうね(笑)。

 そう考えると、マス・メディア界も、今や個人の質よりも量の時代…つまり、真にシェア…分け合うべきはその仕事のことだけではなく、責任とそれに伴う権利や利益の分配、つまりは、一部の人間だけが、偉いさんだけがその権限と利益を独占するだけで、挙句、けして果たされることのなかったその責任をも、多くの社員でこれからは実際に分け合う…シェアすることなのかも知れません。今回の金融危機が起こったときから、多くの企業のその惨状を見るに付け、漠然とそんなことを考えていたのですが、案外、これこそが、これからの日本社会には必要不可欠の重要な要素なのかも知れません………ああ、信じちゃいけませんよ(笑)。鬱で引き篭もりの戯言です(笑)。ではm(__)m。