鬱で凡愚なド外道のリハビリraki6104’s blog

日々の雑談を、余裕のある時に、できるだけ(´・ω・`)

彼らこそ正真正銘の(笑)16

 で、続きなのですが、いずれにしても、小泉政権による郵政解散衆議院選挙、そして、安倍政権における参議院選挙を経て、その結果として、政権与党たる自民党は現在、国民のその広範な支持を必要とする、投票率のより高い選挙が有利な政党へとの変化を求められており、逆に、民主党やその他の野党は、限られた組織票による、投票率のより低い選挙が有利な政党へと自ら意識して傾倒しています。その両者の政党としての性質は、今後、国政選挙を経る毎にさらに先鋭化する、その対立が激化する可能性が非常に高いわけです。

 が、残念な事は、自民党内にそれを理解していないか、或いは、それを理解はしていても、昔からの組織票に頼るしかない議員…主にリベラルと郵政改革反対派辺りなど…が割合に多くいる事です。これは、自民党自体のその体質改善が、小泉政権郵政解散によって、やっとというか、ようやく始まりましたから、致し方ないわけですけど、未だ自民党は、国民政党へのいわゆる過渡期…移り変わりの最中にあり、今後の選挙の成り行きによっては、再び古い型の政党である、低い投票率の選挙で組織票に頼る、私のいう「負の構造」からの金と権力、その集金力と集票力に頼り、その影響を強く受ける古い体質へと戻る可能性が現実にあることを、我々に示唆しています。

 つまり、我々日本国民の立場からしてみれば、まだまだ自民党自体も、「負の構造」からの資金と組織票に依存する体質が色濃く残っている政党ではありますが、それでも、戦後から延々と肥大化を重ねてきたその「負の構造」、私のいう「汚職と搾取の循環システム」が今後も維持され続ける事を思えば、その、かつての古い体質、「負の構造」からの金と権力を集め、その影響をさらに強く受けん、と自ら進んで欲している民主党などと比べれば遥かにマシで、我々には他に選択肢がない、という現在の状況にあるわけです。私などからすれば、ですけどね。恐らく、後の歴史書で、この小泉政権からの改革の進行を、もう遠くない時期にあるだろう衆議院選挙でさらに進めるか、否かは、このときの有権者ら、日本国民のその手の中に真実、その決定権が握られていた、とでも評されるのでしょう。

 今度の衆議院選挙とは、それほどに意味のある選挙です。民主党や、その他の野党による選挙での勝利は、間違いなく、我が日本国の繁栄の停滞と政治のさらなる腐敗を進行し、また、この極東アジアにおいて、大陸へと飲み込まれてゆく未来をも確実に約束するものでしょう。その先に、我々日本国民の未来はなく、また、無能な金と権力の狗である連中にも、彼らが夢見るほどのばら色の未来が待っているものではないのですが、目先の事に血道を上げる、俯瞰して物事を考える事のできない彼らには、そんな簡単な事すらも理解できてはいません。しょせん彼らは、何ら「実」を持たない「虚」…我が日本国に寄生しているのしか過ぎません。その本来の役割を果たし、初めて我が国、国民に寄生する事を許されているのです。彼らにできることは構造…システムの構築であり、何か実体のある価値を生み出すわけではないのです。

 大陸から見れば、狗はしょせん単なる狗にしか過ぎず、それ以上でも以下でもありません。飲み込むべき相手に寄生させ、その国力を弱らせたり、混乱させる「負の構造」である狗は、飲み込むべき相手がそこに存在してこそ、の役に立つ狗でしかなく、ひとたび相手を飲み込んでしまえば、彼らにとって狗は、単に国家に寄生するだけ、無駄に消費するだけで、何の価値を生み出さない邪魔者以外の何ものでもありません。狗のその技術や資質が、結局は「負の構造」の維持や肥大化にしか特化しているからです。少なくとも、狗らが今以上の恵まれた環境におかれる事はないでしょう。なぜなら、すでに大陸側にも、大陸側の「負の構造」が形成されていますし、我が国を飲み込んだ事によるその利益分配が、その大陸側の「負の構造」よりも、彼ら狗への分配を優先されるような道理がどこにもありはしません。元極左の私なら、後顧の憂いなきように真っ先に始末しますしね(笑)。

 普通に考えれば、また、今までの人類の歴史を振り返ればそんな事は明らかであるのですが、固定化された、一種の精神障害を意図的に引き起こされた、彼ら狗の脳内での、ぐるぐるそこをただ回るだけの思考ルーチンでは、なかなかそのことに気が付けません。ましてや、自らのその姿を振り返って、冷静に自らのその能力と技術が何のために使われ、そして磨かれてきてか、それがいったい何の役に立つかを考えれば、単に寄生し、ただ消費し、寄生する社会に余計な負荷…混乱を生み出すだけにしか過ぎません。狗として生きる事は、狗として死ぬ事と同義です。他に敵を大陸が抱えていれば、また、狗としてその能力が飛び抜けていれば別でしょうが、それでも、新たな場所でまた、一から狗としての人生を始めるだけにしか過ぎないでしょう。彼のかつての居場所は、大陸の誰かの居場所となり、やがて大陸の敵がいなくなれば、狗の役目もそこで完全に終わります。まさしく、世にいう、どこまで行っても


ドン詰まり(´・ω・`)


の人生というのは、彼らのような生き方を指していうのでしょう。

 ま、それ気付いているか、いないかはともかくとして、一度目先にの利に負けて狗に堕したからには、そこから脱する、ありふれたまっとうな人生に復帰するには、思いの外、様々な労力が必要であり、特に政治家ともなれば、致命的な弱みをすでに大陸に握られている事にもなります。それある限りは、結局、政治家である限り彼らの狗として生きる他ありません。すでに、様々な労力を実際に費やして、保守派へと転向する事に成功した私にとっては、彼らのその日々の姿はどこまでも哀れにも思いますが、その一方で、かわいそう、などと言う憐憫の情は欠片ほどにも湧く事ありません。彼らは自ら、目先の利と引き換えにして、現在のその狗の立場に自らに堕したのであって、それは、他の誰の責任でもないからです。それしか道がないなら別ですが、自由の保障されている我が国では、それが例え、建て前だとしても、それでもその責任は彼ら自身に帰結するものだからです。野放しの自由には、責任がともなう事はありませんが、民主主義で法治の国家の自由には、必然的にそこに責任がともない、それを、その政治家が認識していない時点で、失格、というわけです。

 ま、脱線した話を戻しますと、彼ら狗の面々にしても、また、その御主人たる一部特定の勢力にしても、今度の衆議院選挙は非常に重要なターニング・ポイント…分岐点である事は確かです。それゆえに、今国会の前に行われた先の臨時国会からすでに、マスコミを総動員した、先の安倍政権時の参議院選挙までの期間に行われたものにも匹敵するような、そんな激しいネガティブ・キャンペーンがタロサに対して行われてもいたのですが、ここに来て、先の安倍政権での教訓から、ネットで始められた件の「田植え祭」のその影響か、地道で執拗な、細かな偏向は相変わらず行われているものの、以前のような、「バー通い」や「読み間違い」、言葉尻をあげつらう「言葉狩り」などはすっかりそのなりを潜めています。これだけを見ても、「田植え祭」のその意義があった、といえるでしょう。ネットの動きが、リアルの日本マスコミに、少なくとも、実際に一定の枠を嵌めることに成功したわけです。さらには、狗HK…NHKに対する、放送された偏向番組のその是非を問うような訴訟も現在起こされています。

 時代の過渡期と一口に良く言いますが、実際、そのときに居合わせ、その動きを日々把握できるという事は、とても幸運に恵まれた事、なのでしょうね。これで鬱でなければなぁ(´・ω・`)。

 今日のところは、この辺りで。ではm(__)m。