鬱で凡愚なド外道のリハビリraki6104’s blog

日々の雑談を、余裕のある時に、できるだけ(´・ω・`)

彼らこそ正真正銘の(笑)33

 週が変わってからというもの、この連日の低い気圧の続く中で、鬱による偏頭痛と闘いながら、タロサ…麻生太郎氏の街頭での演説や、昨日などは、21世紀臨調主催の党首討論の様子をネットで視るというより、聴いてみたのですけど、民主党鳩山代表が、お得意の「友愛」とか、数字が全く出てこない頭の中での見果てぬ夢を延々と語り、時には断定して、それを全く突っ込まない連中と一緒になって我々日本国民を騙そう、としているのは相変わらずの事なのですが、その一方で、今一そこに突っ込み切れないタロサ自身にも、多いに不満を感じざるを得ない内容でした。

 一言でいうならば、私的には


ヌルイ(´・ω・`)


となるのですが、これはやはり、タロサの根本的なところでのその育ちの良さとか、長い選挙戦に向けての盛り上がりへの段取りと配慮とか、色々と試しながら踏み込む度合いを慎重に測っているとかもあるのでしょうが、それでも、元々暴力革命マンセーで、サーチ・アンド・デストロイ…見敵必殺で、弾圧、封殺、殲滅上等の極左でもあった私には、


非常にヌルイ(´・ω・`)


としか思えません。街頭での演説や、今回の討論を聴いていても、各方面への遠慮や配慮がそこに透けて見え、また、その育ちの良さから来るのであろうその行儀の良さがかえって鼻に付き、精神的にもあまりよろしくありません。ま、それでも、民主主義であるわけですから、ベストではなくベターを選ばざるを得ない事も充分承知しているのですけどね(溜め息)。

 ネットでも、保守派の方々が、タロサのそんなところに不満を抱き、批判をしているのを結構見かけます。ま、安倍さんのときもそうでしたけど、基本的に保守派論壇の方々は、悪い意味での自主自尊が強い傾向にあるためか、対象に対するその期待と要求が自然高くなりがちで、自らが設定した条件をクリアできなければ、その途端に批判を強め、その対象自体を今度は一方的に、貶めん、とするがごときはいい加減、


止めたら?(´・ω・`)


と思います。保守派のクセに、我が国で長年培われてきた民主主義のその本質への理解や、あの安倍政権での反省すらもそこになく、再び過去の轍を踏むがごときは自らを貶める事に他なりません。何か、代替案を提示したりするならまた話は別ですが、ただ、感情的に批判したところで問題は改善もしないし、そこからなくなりもしないわけで、非建設的な方向に血道を上げても何もならない事をいい加減学ぶべきでしょう。

 他民族を御主人様と敬い、それに隷属する連中、私がいうところの


金と権力の狗


らのように、自身の利害だけで群れるのには問題がありすぎますが、その一方で、保守派論壇のように、事ある毎に唯我独尊のそれぞれの道にすぐ別れようとするのにも問題ありすぎです。結局それは、この民主主義という、多数を構成する事でその意見を主張する政治体制の中、最終的に、自らに不利にしか働きません。そうした事が、実際、我が国の政治を、そして国民の多くをここまで堕落させる一つの要因となりました。日本における、様々な昔の時代の良い面を主張しながら、その一方で、自らはそれらを実践できない方々が多い、と私が感じるのは、恐らく、彼らもまた、戦後の歪んだ教育やそれら諸々に影響を受けて、一番守るべきを互いに共有できていない事が大きいのでしょう。

 国とは何か? 国益とは何か? とは、世界の基礎的、かつ標準的な社会常識として真っ先に教育されるべきものであり、実際、世界各国ではそれがそれぞれのイデオロギーの下に成されているわけですが、我が日本国においては、それよりも個人の自由が教育で優先し、重要視されているのが現状です。ま、アメリカの我が日本国を骨抜きにする占領政策に、私のいうところの金と権力の狗の連中が乗っかっている状態が、未だ、安倍政権での教育基本法改正以後も続いているわけですが、どうも、そこのところが根本的に認識されていない気がします。逆にいうならば、そこのところから話を始めないと、現代日本人の大きなコンセンサス…合意は得難いわけで、いわば、戦後忘れられてしまった世界標準の価値観を、再び、多くの国民の中に広め直さねばならないわけで、そこのところが根本的に見落とされている気がします。

 例えば、


国とは何か?


といえば、土地であり、国民であり、枠組み、の三つの要素になります。この順番は、国におけるその重要度の順番でもあり、まず、土地なくば国民を養えず、それをまとめるべき枠組みも意味を成しません。まず土地があり、次にそこに集い、養うべき国民が居て、最後にそれを守り、まとめるための枠組みがそこに必要となります。枠組みは、しょせん手段にしか過ぎませんから、土地を守り、そして国民の利益に実際反するものは淘汰されてきました。昨今の歴史的なイベントでも実証されたように、共産主義社会主義のように官僚組織…その枠組み優先の国々は次々に弱体化し、また、金融工学危機にも見られるように、金儲け優先の行き過ぎた経済の枠組みである、先鋭化した資本主義、市場原理主義を優先したアメリカもすでに弱体化の道を歩み始めています。当然、それらの国々は方針を転換するわけですが、そこには明らかな差が見受けられます。

 ここで、


国益とは何か?


となるわけなのですが、われわれ民主主義国家においては、国益とは、国民全体の利益であるのですが、その他の様々な独裁国家においては、国益とは、一部の人々のためのその枠組みの維持、といえるでしょう。勿論、その前提に土地を守る、或いは土地を得る、という国益の大前提が存在していますが、そこは両者において共通している認識ですので別に良いでしょう。土地を守る、土地を得るとは、国益における大前提である事さえ認識してもらえばそれで良いのですが、その一方で、様々な独裁国家と我々民主主義国家では、その次に来る国益への認識に明らかな違いがあるわけです。その結果から、もたらされた過去の事実を鑑みれば、両者の国力の差は歴然としています。つまり、優先されるべきは、領土の保全と獲得を大前提として、次に必要な事は、国民全体の利益を尊重しなくてはならない、という事です。国をまとめる枠組みは、その後に来るものでしかありません。

 だからこそ、私は今こそ、


日本国民全体の利益


を主張すべきときである、そこから再び始めるべきである、と考えているわけですが、どうも、タロサはそこまで踏み込み気がないような気がしたり、しなかったり(笑)。踏み込んでくれると良いのですが、仮にそうしたとき、物理的な混乱…魔女狩的な騒乱に下手すればなるかもしれない、という気がしたり、しなかったり(笑)。私個人的には望むところではあるのですけど、タロサ的には、そこまで踏み込む事は大きく国益を損なう、と考えていそうな感じがします。ま、確かにそれも一理はあるのですがね(笑)。ではm(__)m。