鬱で凡愚なド外道のリハビリraki6104’s blog

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彼らこそ正真正銘の(笑)36

 衆議院選挙が今日公示され、本格的な選挙戦の始まりであるわけですが、現在の左派が、その議席数を減らしたり、民主党という化けの皮を必要としなければならくなったのは、嘘や欺瞞が昔ほどには通用しなかったり、実際、左派政権が牛耳る国々のその体たらくの実体、そして、国民の弾圧や異なる意見の封殺、政治的に邪魔な人々や民族の殲滅上等のその実像が、すでに多くの日本国民に知れ渡ってしまった事が大きいのですが、それにも増して、彼らがイデオロギーの結び付きの方を何より優先し、その左派諸国に対して無批判である事が、より一層、彼ら自身を現在の窮状に自ら追い込んでいます。

 つまり、彼ら自身が、それら左派諸国の独裁政権と違う、という事を証明すれば済む話なのですが、現実に、当の左派諸国における独裁政権


金と権力の狗


にしか過ぎない彼らには、その選択肢は、最初からその頭の中にはないものであるわけです。これは、いわゆる「職業左派」といわれる左派運動自体がすでに職業化、稼業と化している人々こそより顕著である、といえます。民主主義と法治によって治められ、資本主義経済の繁栄によって運営される我が日本国において、その体制に事ある毎に反対を唱えるその運動自体が、すでに、我が日本国においては一つの単なる稼業と化しています。勿論、保守・右派運動においても、この稼業化は成されているわけですが、両者の違いは、その圧倒的な数の差といえるでしょう。これは、それぞれがどれだけ体制内に巣食っているか、或いは、虚業として寄生しているか、の違いです。

 そもそも、右派はその古くから存在しているからこそ「保守」とも呼ばれ、一方、左派はそれが比較的新しい思想であるからこそ「革新」とも呼ばれています。その事が指し示すように、元々「保守」思想の地盤の中で、その社会で阻害されている、と感じていた人々の間に広められたのが「革新」思想であるわけです。どんな社会であろうと格差は存在し、また、貧困や差別が存在する限りにおいて、その現状を変える、打破する「革新」思想は、それを欲する人々に容易に受け入れられます。ましてや、そこに悪意を持って、意図的に美辞麗句に彩られた嘘と欺瞞の満ち溢れた夢を見せられれば、元々、満足な教育を受けられない、恵まれない立場にいる人々こそ、その不平不満に比例して、より、その悪意に満ちた悪魔の誘いに熱狂的に、そして容易に共感してしまうわけです。我が国でその条件が整っていたのが、戦後間もなくのベビー・ブーマー世代である、いわゆる「団塊の世代」の青春時代である1960年代であるわけです。

 若者が、社会の現実に反発を覚えるのは当たり前の事です。ましてや、当時は戦後間もなくであり、教育や社会保障、社会自体もまだまだ未熟な時代で、それに加えて、先の敗戦において、いわば失敗したその先の世代への拭い難い反感、そして不平不満の満ち溢れていた時代でもあります。そんな時代であったからこそ、より過激な「革新」思想とその運動が、鬱憤を抱えた若者らに熱狂をもって受け入れられ、その鬱憤を晴らすために多くの若者が「学生運動」に身を投じ、その運動自体がより暴力的な「革命運動」へと過激化したわけです。ただ単に、平和的な変革を求めるだけのおとなしい運動であったならば、当時の日本国政府も、あれほどに強い拒否反応を示し、弾圧に近い苛烈な取締りを行う事もなかったでしょう。しかし、地政学上の要衝に位置し、また、事実上のアメリカ民主主義のアジアにおける共産主義に対する砦、朝鮮半島に対する前線後方基地、或いは不沈空母ともいわれた我が日本国に、当時深刻な混乱を引き起こし、弱体化させ、あわよくば革命を成立させて自陣営に引き込む事は、共産主義勢力にとっての共通の国益であったわけです。

 当然、国益の上からもそんな自体が容認できないアメリカは、その持てる力の全てを注ぎ込んで、我が日本国における民主主義と法治、資本主義を保持するために、当時の日本政府を、その潤沢な資金と情報力によって全力でバック・アップし、それは、共産主義思想による暴力革命の阻止とその取締り、そして、その後の我が日本国の、あの高度経済成長のその原動力のひとつの大きな要因となります。一時の熱狂に酔い痴れた多くの「団塊の世代」も、実際、目の前で年々自らの置かれた環境が改善されるのであれば、何も痛い思いまでして、共産主義による暴力革命にまでその身を投じようとは思いません。水が低きに流れるようにして、多くの人々が、体制の中の一歯車として通常の社会生活を営むようになりました。元々の話、当時の多くの「団塊の世代」は、共産主義革命を心底から信奉していたわけではなく、ただ単に、その身の内に抱えた深刻な鬱憤を騒いで晴らしたかっただけで、深い考えもなく、いわば当時の一つのファッション感覚で騒いでいたに過ぎません。血みどろに激化してゆくその現実を目の前にして怖気付いた、というのが本当のところでしょう。頭が冷めれば、これからの現実問題が、動かし難く実際あるわけで、現実社会での生活に戻らざるを得なかったわけです。

 当時の共産主義勢力の狗として、あの学生運動を主導した連中も、やはり生きて行かねばなりません。しかし、表立っての運動は現実的な痛みをともなうだけで、自らの盾となるような人材の確保にすら事欠くような状況では、彼らもまた、一時なりを潜めて潜伏する事を選択せざるを得ませんでした。それぞれ培った才覚を持って、未だ「保守」の手が及んでいない分野へと、彼らは自然に、安泰であり、油断する「保守」に比較して真剣に社会に潜り込み、浸透して合法的に体制に寄生し、この日本国の国力を、混乱やサボタージュによって少しでも減殺する事を考えました。つまり、その結果が、基本虚業であるサービス業への左派の浸透、公務員、労組、マスコミなどのそれぞれの業界への左派の汚染を許す結果となったわけです。ま、そもそも、共産主義思想そのものが、嘘と欺瞞を前提としたプロパガンダによる、敵側体制への浸透をその運動の基本としていますから、邪教ともいえる共産主義を信奉する連中にとっては、内側からの体制崩壊のためのサボタージュや洗脳工作をより効果的に行うためにも、これは必然の帰結ともいえるわけです。現実に、我が日本国の民度は、彼らのその執拗な工作の積み重ねもあって、年々低下するばかりです。

 基本的に、「保守」の敵地で生きねばならなかった「革新」と、「保守」である事に安住し、油断し切っていた「保守」とでは、その日常における緊張感が始めから違います。ましてや、我々日本人は、侵略や浸透に不慣れな上に、


騙される方が悪い


という、世界では標準的な感覚に乏しい、どちらかといえば稀有で希少な精神文化を持つ文明民族です。しかし、時代は変わり、今や、インター・ネットによる高度情報化社会の到来によって、嘘と欺瞞の通用し難い、共産主義勢力にとっての冬の時代へと突入しています。彼らお得意の人海戦術も、この広大な外部記憶装置ともいえる空間においては、これまでのようには充分に機能しません。ま、そもそもの話、嘘と欺瞞の積み重ねに頼ってしまったところが彼らの根本的誤りであるわけですが、時間経過と共に、過去の事実の積み重ねから導き出される答えが、多くの日本国民によって共有される日が来ます。そのとき、彼らは結局、我々多くの日本人からの


騙したな(怒)


という憎悪の中で、日々の生活をする事となります。

 ま、自業自得に過ぎないのですが、国外に逃げられたり、その前に天に召される幸運な人も居るのでしょうが、その多くはやはり、我々多くの日本人からの憎悪の海の中で生きてゆく事となります。それゆえに、彼らは現在、後先考えない時間稼ぎに血道を上げているわけです。少しでも、そのときを先送りしたいのでしょう(遠い目)。やはりタロサには、ここで大きく踏み込んでもらいたいものです。勝つにしても負けるにしても、多くの日本人に真実を告げる事こそが、今後の戦略的に正しい事だ、と私は考えるのですけどね。ではm(__)m。