鬱で凡愚なド外道のリハビリraki6104’s blog

日々の雑談を、余裕のある時に、できるだけ(´・ω・`)

それゆえに3

 前回エントリーで、作業時間がちょうど四時間を切るぐらいorz。休み休み書いていますので、どうもその論旨が散漫になりがちですorz。しばらくはこんな調子が続くと思われますが、そこはそれ、皆様なにとぞよしなにm(__)m。


「かの国々との違いは何か?」


 当時、その問いによって私が知りたかったものは何かといえば、いわば悪い部分やその原因となる存在を排除するシステム…その制度の有無や、それが確実に作動し明確な処理の行われる事への裏付け、担保が成されているのかでした。つまり、単に「必ずする」とか「そうは絶対ならない」などの言葉だけではなく、システム…制度や機構的な組織的、かつ、個人レベルをも含めた確実な害悪部分の排除が間違いなく機能するのか否か、のその一点でした。かの国々は、当時、その失敗や原因が、おぼろげながらもそれぞれ明らかとなりつつありました。要は、つまるところがそれぞれの指導者層の劣化と腐敗、それにともない悪化した組織的な腐敗による、その組織そのものの機能の極端な低下、或いは、その不全です。そして、当時の私は、彼ら、いわゆる「左派」で一般的にまとめられる人々同様、目的のために手段を選ばない事が当たり前で、自らの正義の名の下に、自らのいかなる不正な行為をも正当化する…今現在、日々現実にそれを我々の目前で行っている「左派」の連中と同様の、まぎれもない「人治主義者」であったわけです。

 資本主義経済を「悪」と信じていた当時の私は、共産主義経済を信奉し、その対極に位置する資本主義を嫌悪し、その打倒のためにはありとあらゆる手段を用いる事に躊躇なく、それを罰する「法」は、憎むべき資本主義者らの造り上げた悪法であり、要は、狡猾に立ち回ってバレなければ、世間に露見しさえしなければ良い、と考えていたわけです。何せ、自らは「正義」たる共産主義革命を成す存在であるわけですからね(笑)。その時の凝り固まっていた私の精神に、さり気ない一石を投じたのが老師でした。


「道(教え)を説くのに、答えをそのまま教える(説く)のは悪い先生。良い先生、道標見せるだけ。これ、大事な事」


 後の話ですが、老師はそのときに、私の精神が、その投じたこの一石によって全く揺れる事無く、頑なにその一石を跳ね返すほどに心(精神)が凝り固まっていたとするならば、その後、これほどに深く関係する事はなかった、と別れの宴のときに笑いながら私に仰られました。勿論、それは老師の善意が、私からの悪意として自らに還って来る事を懸念されての事でしょう。幸運であった事に、当時の私の精神(心)はそこまで固まり切っては居らず、例え小さくとも、その心の水面に小さな波紋を描く位には、辛うじて柔らかかったわけです。凝り固まっては居なかったものの、相当にドロドロに濁り、かなり粘っていましたけどね(笑)。

 その後、問答形式というか、対話の形式で老師の教えを日々授かってゆく、今になって考えても、あれほどに濃く、深い時間の流れはその後経験していません。答えをそのまま見せるのではなく、私自身にまず「考え」させ、最終的に、私自身に自らで「気付かせる」事を主に進められたその教授法は、共産主義の洗脳教育にどっぷりと浸かっていた私には、今考えてみても非常に効果的でした。当時、会社の商品開発部門に所属し、理系出身者であった事も幸いしたのでしょう。なぜなら、努力の結果が目に視えて商品の「売れる」事で明らかとなり、また、「売れない」事でその原因を探り、特定しては修正していかなくてはならない世界であったからです。論理を破綻なく積み重ね、状況を分析しては原因、その問題点を明らかとし、その解消ためのソリューション…解決法を探っては導き出すわけです。先人らの、そして自らの過去の失敗にも学び、その修正点を見出し、改善を繰り返してその商品価値を高める。何事にも通ずるそのベース…基本、下地といったものが極めて身近に存在し、また、すでに私自身の中にもあったわけです。

 老師の教えのその核心を一言で表すとすれば、それは


「常に水のごとくある事」


となるのかな? と今の私は考えています。ただし、とそこにもう一つ付け加え、補足するなら、


「常に考え、そして必ず選択をする水でなくてはならない」


というところなのだと思います。


「自らの心は、状況によって姿形を変える水のごとく柔軟にあらねばならないが、その状況下でのそのときその時の結論、結果を必ず得なくてはならない。なぜならば、水である事にこだわり過ぎるその事もまた、水のように柔軟で自由な心である事に反し、単に思考の袋小路に迷う事、つまりはそれは優柔不断にしか過ぎず、そこに先…進歩はない」


 ………うーん、もっと端的に、老師のように上手く表現できれば良いのですが、残念ながらその不肖の弟子には、現在でも、未だこの辺りがその限界のようですorz。

 それはともかくとして、それゆえに、私は前回も書きましたが、共産・社会主義であっても頭からすべて否定する気はありません。民主主義とは違い、その組織的な欠陥なり、問題となる原因を温存してしまいやすいその致命的欠陥を明らかに抱えていますが、それでも、独裁や過去の強権政治制度がそうあるように、同じく、民主主義にはない利点がそこに存在しているからです。その点では、三橋貴明氏などの良く言われるように、老師は、私がこの先も生き残りやすいように、常に環境や状況に順応し、自在に対応できるようにするためのサバイバル…生き残りのための極意を伝授してくださったのかも知れません。今の私にとって、民主主義であれ、共産主義、例えそれが独裁主義であろうとも、しょせん「主義」などというものは、国家における支配、組織運営のために使う便利な道具にしか過ぎません。


「国家と何か?」


 以前にも書きましたが、その問いに対する答えは今の私にとっては、


「土地であり、人であり、枠組みである」


わけです。まず、最初に人を養い、育むための土地があり、そこに人々が集い、最後にそれら守る国家としての枠組み…つまり、人々の選択した「主義」という道具が来るわけです。しょせんは道具ですから、環境や状況に合わせて使い分ければいいし、また、必要に応じてカスタマイズ…改造したり、新たな機能を付け加えれば良いだけの話しにしか過ぎません。つまり、人は


「常に水のごとくあるべき」


しかしそれは、


「常に考え、選択する水である」


わけです。選択には成功と失敗が付きまといます。それを正しきときと、誤りのとき、と言い換えても良いでしょう。正しきを守り、誤りを変える。変えるべきを変え、必要がなければ何も変えない。私のいう、いわゆる「保守派」とはそういった意味合いで使っています。私にとっては、「保守」とはけして意固地に何も変えないことではないわけです。

 その「保守」すべき制度として、私は選択がその基礎となる民主主義を選び、その制度の…システムの機能を担保するために「法治」というシステム…その名の下に万人が平等に裁かれる事が原則の制度がある、と考えているわけです。私が良く言うところの


金と権力の狗


の皆様は、どうあっても、この国の根幹であるその枠組みを破壊し、かの国々のように、万人が平等には裁かれない…というよりは、自分たちの身だけは治外法権下に置きたくて仕方ないわけです。実際、従来マスコミが彼らを擁護し、或いは、それを野放しのままにする事によって、彼らはそれを半ば既成事実化しようと現実にしています。さて、社会の木鐸とやらはいったい何をしているのやら(笑)。

 後は、それを批判する小うるさい連中の口を塞ぎ、分断する事さえ叶えば、後は坂道を転げ落ちるようにして、我が日本国はかの国々のように堕ち行くだけです。『さぼり記』のazuki氏などもそのブログで指摘していた事ですが、最悪を考えたとき、彼らはすでにその一歩手前にまで来ています。ま、参院選次第ではあるわけですが、同時に、その足元の崖っぷちも急速に深く、そして脆くはなりつつあるのですけど、さて………それにしても肝心の自民党がアレですからねぇ(溜め息)。切るべき者すら切らず、どうにかできると真剣に考えているのなら、谷垣氏は潔く自らを処すべきでしょう。その地位に着くには、準備も、能力も、そして、その気概すらも足りない事は明らかです。そうすれば、次の順番は「保守派」に回ります。ま、党内の左派が、またぞろその足を引っ張るのでしょうが、それでも、確実に攻め手は今よりも増えるのですけどね。

 ま、せめて、あの口だけ正義の弟は即刻切るべきでしょう。自民党にとっての、今や明らかな癌と化してますからね(笑)。ではm(__)m。