鬱で凡愚なド外道のリハビリraki6104’s blog

日々の雑談を、余裕のある時に、できるだけ(´・ω・`)

それゆえに9

 このネットによる高度情報社会にその身をおき、様々な情報に日々触れながら思う事は、少なくとも、共産主義革命以前の中国には、当時、広く民衆に一般化はしていなかったものの、それでも、ある一定の豊かな文化を持つ余裕のあった階層には、充分、この高度な現代にも通用する思想や考え方が受け継がれていたのは、私には間違いないように思えます。


心は常に水のごとく在れ


 先にも以前にも書きましたようにこの言葉は、かつて、共産主義に溺れていた若かりし頃の私が、二十数年前に、共産主義革命以前の中国を知る中国人老師から、縁あって幸運にも私が賜った教えであるわけですが、それが、今なお私の中で常に重きをなし、また、歳を経るにつれ、さらに日々その重きを増してゆく事からも、老師の中には、他に比類のない優れた中国文化が確かに受け継がれていたのでしょう。ま、私ごとき凡愚には、あまりに過ぎた教えでもありますけどねorz。

 この私にとっての現実、事実ひとつを見てみても、私が共産主義社会主義などの左派思想を嫌悪し、また、人類社会におけるダークサイドとして忌み嫌う事を皆様にご理解いただける様に私には思えます。もっとも、その共産・社会主義の制度であったとしても、民主主義は、多くの合意を形成できるに充分なその有意さや有用さが確かにあるのであれば、議論の末にその細部を加工して、その害なる部分を除いて民主主義制度に組み入れる事が可能です。現実に、我が日本国、その長年の政権与党であった自民党も、そうして、その繁栄のときをあのバブル崩壊まで築いてきたわけです。

 我が国の現状を振り返ってみれば、多くの物事の分岐点が、私には、あのバブル崩壊のときに集約されているような気がします。そこには、それに対する反省ではなく、それを現実に引き起こした多くの人々の非常に利己的なその「保身」の意志、欲望のみが、現在の我が日本国の散々たる現状へのその起点であり、その原因となっている事は確かでしょう。痛みを伴う、その状況や環境の変化に対応し、その状況や環境自体を先を見据えて変えてしまう事よりも、彼らの多くは、自らのその保身のみを優先し、また、変化に伴う痛みを忌避して、本来、自らの行うべきを行わなかったわけです。

 例えば、金融機関の旧大蔵省官僚らの接待に頻繁に使われ、バブル時代のその象徴ともなった「ノーパン・しゃぶしゃぶ」などは、皆様の記憶にも割合鮮明に残っている事でしょう。「豊か」である事が、未だ、我が日本国においては何事にも優先され、その代償に多くの、本来、受け継がれるべきもののその多くが犠牲にされる事が許容される、その事自体が多くの国民の合意を得ていたあの時代に、その多くの国民の失笑を誘い、旧大蔵省官僚らが現に実際に買ってしまったあの一件です。店の宣伝の意味では、あれほどに成功したケースも珍しいでしょう(笑)。しかし、その教訓は、彼らのその「保身」によって歪められ、その状況や環境そのものを変える事で伴う「痛み」を忌避した彼らに、今もそのままに受け継がれているように私には思えます。

 件の「ノーパン・しゃぶしゃぶ」の接待が


そんなによかったん?(´・ω・`)


のかどうかはともかくとして、少なくとも、彼らにとっては、今なお継承されるべき、非常に強烈で甘美な記憶であるのは確かでしょう(笑)。彼らは、件の一件で痛い目を見て、考えたわけです。それはきっと、


あの痛みは繰り返したくない


でも、


どうしてもあの味が忘れられない


というものでしょう。

 そこで彼らは、「痛み」を繰り返さんがために従来マスコミを記者クラブを使って、財務省に逆らえないように彼らを躾るわけです。配布される報道資料によって、その能力が低く、何ら努力もしない従来マスコミを掌握し、財務省の意に反する者にはその資料を渡さぬ事によって、或いは、そもそも記者クラブから排除する事である種の恐怖を彼らに与える。こんな事ぐらいで、唯々諾々と支配されるような、我が日本国の従来マスコミであるからこその報道管制法です。海外マスコミには、とてもではないですがこんな方法は通用しない、と考えていたのですけど、何か最近の報道を見ていますと、世界といえども、どうも経済分野では五十歩百歩のような気がしていますorz。

 それはともかくとして、彼らは同時に、あの「ノーパン・しゃぶしゃぶ」クラスの接待のその状況と環境を維持するために、経済不況によって、縮小する経済規模に対する対処を考えます。経済規模の縮小は、すなわち、接待の質の低下、提供される利得の減少に直結するわけですから、彼らとしては看過できるものではありません。自らの襟を正す、とか、経済規模を再び拡大する、とか、いずれであっても結果として、彼らは「我慢」を強いられる事になります。ほんの一時ですら、彼らにとってはそれを受け入れる事ができなかった事は、現在の我が日本国の現状がそれを雄弁に、高らかに語っていますorz。もはや、


そんなによかったんか(´・ω・`)


としか、私にはいいようがありませんorz。

 「緊縮財政」により、彼らは、各省庁や地方自治体という新たな接待先の獲得と、そして規制による金融界への締め付け、或いは、それを適宜緩める事によって従来の利得の提供を維持し、接待の質を維持しようとしたわけです。公務員にとっては、しょせん接待も利得も税金で賄うわけですから、痛くも痒くもない話しです。さらに、それによって引き起こされる「デフレ」によってお金の価値を上げることは、そのまま、民間の労力を買い叩く搾取そのものでもあるわけです。彼ら公務員らにとって、「緊縮財政」と、それに伴う経済の「デフレ」化は、彼らにとってはぜひとも、何としても必要であったわけですね。すべては、かつての


あの「ノーパン・しゃぶしゃぶ」を再び


というわけですorz。

 その意味で考えると、現在の「円高」すらも、彼らにとっては利得である、と考えられますね。海外の民間労力を買い叩き、また、援助の価値を高めて相手国からのキックバックを得るわけです。その上、職場はサボろうが怠けようが、アル中であったり、精神に異常があっても貰えるものは貰える制度ですからね。私が、かつてから「公務員制度改革」にこだわり、「構造改革派」を標榜するそのゆえんでもあります。経済の状況上、「財政出動」は致し方ないと考えますが、それでも、その無駄は確実に除かなくてはなりません。口先だけでは何とでもいえますが、実行にはそれ相応の能力や裏付けが必要です。一口に「言葉の重み」といいますが、それが今ほどに軽い時代も珍しいですね(笑)。ではm(__)m。