鬱で凡愚なド外道のリハビリraki6104’s blog

日々の雑談を、余裕のある時に、できるだけ(´・ω・`)

それゆえに17


ゆく河の流れは絶えずして、しかも


元の水にあらず


 鴨長明が残した有名な「方丈記」の序文の一節です。日本人であれば多くの人々が知っている、或いは、学んだろうこの一節を、私は昔、中国人の老師に教えられるまで、恥ずかしながら完全に失念していました。ま、元極左ですから、当然といえば当然であるのですけどね(溜め息)。

 幸い、我が国ではありふれた古文ですから、その意味することを学ぶには全く苦労がありませんでした。その反面、その一節を特に老師が好み、私に教え、説いたその意味を、意図を私が自分なりに理解したのは随分と後の事だったと記憶しています。ま、不肖の弟子で凡愚ですからね(笑)。

 その意を私なりに悟り、理解したときのその感動は、今でも、私の中で鮮明に生きています。老師の「道」の教え、「水」の教えが私の中でピッタリと一つに融合し、芽吹き、そして息づき、私の中で流れ始めて、そしてついには巡り始めた瞬間を迎えるまでのあの感動は、私のその後の人生を決定付けたものであったように今では思います。

 いわゆる「悟る」事自体は、それ以前、以後も何度もありましたが、残念ながら、いわゆる「悟りの境地」たる真理の会得は、恐らく凡愚の私にとっての終生の課題です(笑)。ま、恐らく、それに至るには、不肖の弟子たる私はあまりに凡愚にすぎませんから、順当に、道半ばでそれを終える事となるのでしょうね(遠い目)。

 ここから先は、わかる人にはわかるでしょうし、わからない人にはわからないかも知れません(笑)。

 「井桁の理論」による操体術理で、一部業界で一躍有名となり、今現在も注目され続けている甲野善紀先生が多用される言葉で「気付き」という言葉があります。いわば日々の繰り返しの中で、発見や新たな理解や解釈に「気付き」、それによって今までに繰り返してきた事がさらなる発展、進化を遂げ、さらに展開して行くわけですが、そのきっかけや発想転換のその瞬間を、先生は「気付き」と呼んでおられる、と私は自分なりに解釈しています。

 私にとっての「悟り」とは、甲野先生のいうところの「気付き」と同じ………というよりは、それに極めて良く似た概念といえるのかも知れません。

 日々の繰り返しの中で、ある技術の積み重ねが繰り返され、その積み重ねがあるからこそ技術は磨き抜かれて行き、ある日、不意に「ここが限界」と思われた壁が打ち破られ、それまでの制約、それまでの下地となった基本から解放されるわけですが、結局、水の流れが巡るようにして人は原点ともいうべき基本に立ち返り、以前とは微妙に違う水と成り、その行く道も以前とは微妙に異なるわけです。

 私があのとき悟った事は、


ゆく河の流れは絶えずして、しかも


元の水にあらず


の一節をちょうど補完するように私の中に生まれ出たのが


道は遥かに遠く、流れは巡る


であり、私なりにそれらを組み合わせますと


ゆく河の流れは絶えずして、道は遥


かに遠く、流れは巡る。しかして、


すでにその水は元の水にはあらず


といった具合になるわけです(笑)。

 皆様の貴重な機会を奪う事ともなりますので、ここで、細かな解説をするような野暮は避けますが(笑)………ね?(´・ω・`)、わかる方にはわかるでしょうし、わからない方には本当にわからないように思います(笑)。その違いはほんの些細な事なのですが、時に、その差が運命を分けるほどの違いとなって、そのそれぞれの人生を変えてしまいかねない差となる重要なものである、と今の私は考えているわけです。

 ましてや、目先の事に捉われ、この遥かな道と流れを逆に巡ってしまった日には、人類社会におけるダーク・サイドに果てしなく堕ち行くだけです。私にとって、共産・社会主義とはそういうものであり、また、「人間のクズ」とは、私のいう道と流れに自ら逆らう事を選択・決断した人々を指します。さすがに昨今、その連中のあまりの多さにちょっとウンザリ(´・ω・`)。

 世間は騒がしいのですが、相変わらずな鬱にまみれる日がな一日、そんな埒ない事に想いを巡らしてみたり………ああ、「考えない」って難しいorz。ではm(__)m。