鬱で凡愚なド外道のリハビリraki6104’s blog

日々の雑談を、余裕のある時に、できるだけ(´・ω・`)

それゆえに86

 どうにも、いまいち理解されていないのですが、私が見ている、そして人々に話す現実は、例えそこに一理があったとしても、また、幾人かの他者と言うフィルターを通してのものであったとしても、それは、しょせん一つの視点…例えば外道な「私」という立ち位置、ある一つの側面からの風景にしか過ぎません。

 勿論、その見る角度を私なりに振幅させ、時に立ち位置を変えて視野を拡げる事もしていますが、それでも、そこに在るのは、やはり外道な「私」という一側面からの景色にしか過ぎず、外道な「私」であるからこそ見えるし、同時に、外道な「私」であるからこそ見えなかったり、見落してしまう事が必ずやあるわけです。

 世界は、外道な「私」だけで成り立つわけでありませんからね(笑)。

 ただ逆に、外道な「私」はそれでも世界の一部である…そのホンのホンの一部ですが…以上は、その世界をその影響の及ぶ範囲で動かす…コントロールする数多の手段の内の一つではあるのでしょう。ま、その影響範囲は、本当に微々たるものにしか過ぎませんけどね(苦笑)。

 しかもそれは、限られた人々だけの何か特別な道ではなく、単に、その気になれば「誰もが通れる」のですが、だからといって「誰もが望んで通る」ほどのメジャー…主流の道ではありません。その主流から外れた、全体の一部…ホンの一部の外れ者達が通る道、文字通りの「外道」というわけです(笑)。

 そんな外れ者な「私」ごときの与太話程度が、思いの外そのニーズがあるというのは、社会全体…特に社会を正しくコントロールするはずの選民様ら…が外道に染まって狂い、文字通りにおかしくなっているからなのでしょう(溜め息)。「上乱れれば、下も乱れる」が世の習い(遠い目)。

 しょせん「外道」はあくまでも一つの手段に過ぎず、しかも、「殲滅・皆殺し」のような最悪で最低ですが、しかし最後の最後にはどうしても採らざるを得ない手段でしかなく、けして、それ自体を目的・目標とするべきものではありません。活用はしても、それに万が一にも溺れる事があってはならないのです。かの国々のようにはね(遠い目)。

 ですが、そういった危険な道であっても、それを活用し意識する事、それ事態には充分な意味があります。なぜなら、「最悪」が確かにそこにあるからこそ、逆に、そこに至るまでの道の内の妥協点や選択肢、そこに至らないための道の内の妥協点や選択肢が増え、それらがより明確になるからです。

 ま、私が「まず最悪を考える」のはそのためなのですが、私の場合、過去の巡り合わせで、たまたま「正しくそれを行うために、まず、誤りを知る」立場になっただけの話。

 共産・社会主義や独裁、或いは、過度な…行き過ぎた資本主義や愚民教育や情報操作による誤った民主主義のような、一部の人々や階層による支配は、けして、理想的な「経世済民」のような政にはならないものです。そこに正しく、集団全体の意見が反映されないのですから当然で、いうなれば、それらは一部に偏る事こそが自然なのです。

 であるからこそ、結果として、その集団の全員が参加しつつ、人々の学びと共によりバランスの取れた社会を形成し、さらに高みを目指すのには「民主主義」を採用し、より正しくそれを運営する国家こそが今後の世界を、否応なくリードする事となるのかも知れません。

 幸い、我々日本人というものは、高みから全体を俯瞰視する、そして想像する事は苦手とする民族ですが、逆に、一つひとつを積み重ねる上で全体が高みを目指す事には非常に優れた民族です。ま、その代わりに、確かに損をしている部分もありますが(溜め息)。

 ただ、演繹(えんえき)よりも帰納(きのう)、理論よりも実践、トップ・ダウンよりもボトム・アップが得意な我が日本国には、積み重ねる「民主主義」こそが本当に最適な政治手法であるのでしょう。

 明治の元勲らの遺した優れた戦略は、この現代においてようやく、その真価を発揮すべく、今や結実しつつあるのかも知れません。もっとも、それが花開くには、さらに紆余曲折を重ねるのでしょうが(遠い目)。

 今、我が日本国に、何やら風が吹き始めている気がする今日この頃、皆様にはいかがお過ごしでしょうか?(笑)。年の瀬ですねぇ。あいにくの雨ではありますが、私はといえばここ最近調子が良いです。

 きっと、政権交代によって、精神的な重荷が事のほか軽くなった事とこれは無縁ではないでしょう。年の瀬のちまたも、昨年よりは、少し浮ついた感じがします。皆様におかれましても、政権交代までのこの三年三ヶ月は、やはり、大きな心の重石となっていたのかも知れません。

 ま、再生と再建の道は、未だその端緒に付いたばかりに過ぎず、相変わらず、「そうはさせじとする」は彼の者ら。ま、もはやそうする以外に、彼らには自らの立場と心を守る術がないのでしょうけど、安易な、そして不毛な逃避にしか私には見えません(溜め息)。ほんと、頭悪いですねぇ(笑)。

 先のエントリーでも触れましたが、補足の意味も込めて書きますと、規制と監督のための課題や問題すらもわからないほどの彼らの不勉強、そしてその能力不足は、我が日本国にとっての未来への遺産たる様々な知見や技術の、海外への流出にもつながっています。

 画期的、かつ有望なそれらのためのその研究の価値が、当然、彼らにはわかりませんから、研究者らは、その価値を認める事のできる、その能力のある海外へと研究資金を求め、結果、日本産でありながら海外で結実し花開く研究は少なくないのです。

 問題は、業界にその能力を持つ人間が実際に居ながらにして、明らかに不適格な人間が、許認可権という強い権限を持つ(を持つorz)ポストに居る事です。彼らは単に、そこがいわゆる「美味しい」…時間に追われる民間に「贈賄圧力」をかけ易いという「欲」のために居ますから、当然、勉強なんてしんどい事は忌避します。

 原発事故でも明らかになりましたが、彼らは、自らが作成すべきレポートすらも、メーカーの人間に代筆させるぐらいその能力が低く、人としてその性根が腐り切っています。「身分保障」がなければ、とても民間では生きて行けないほどのそのレベルの低さには、もはや呆れるしかありません(溜め息)。

 それゆえにこそ、私は「公務員の収賄には公職追放を以って報いるべき」と考えます。ま、ルールを少し変更するだけの事で、公務員の立場が強すぎるので、それをバランスするために民間の立場を強化するわけですね。

 ま、色々と阿鼻叫喚の地獄絵図が展開されるかも知れませんが、何、普通に民間並の仕事さえしていればそんな事にはなりはしません。できるものならね(笑)。ま、「隗(かい)より始めよ」で、まずは小沢氏一党の排除からが妥当でしょう(遠い目)。

 さて繰り返しですが、私がごとき鬱で凡愚な外道を妄信するは誤り(笑)。皆様に、善き年が訪れますよう願うばかり。ではm(__)m。