鬱で凡愚なド外道のリハビリraki6104’s blog

日々の雑談を、余裕のある時に、できるだけ(´・ω・`)

再生への切っ掛け4(今、求められている事)

 かつて、あれは中学のころだったのか、それとも高校のころであったのかさえも、今の私の記憶には定かではありませんが、確か、たぶん高校のころ、僅か一年にも満たない短い期間教わった、非常勤の歴史の先生がいわれたその言葉だけを今でも良く覚えています。その異色ともいえる非常に興味をそそられる、当時の私としては衝撃的な面白い授業を受けて、確か私は、なぜこれほどの授業をするあなたが非常勤なのか、という質問をしたときのその答えだったと思います。

 「だから、かな?」と、そうどこか飄々とした感じでその先生は笑っておられましたが、当時は、大阪での教職員数はいわば一種の飽和状態であり、その試験自体も難しく設定され、色々と難しいその事情を聞いた記憶があります。今にして思い出しても、その授業は非常に理にかなったものであったと思います。最初に生徒の心を掴むその手法といい、適度に笑いを交え、いわゆるまるで一つの物語のように起承転結がある、まるで講談のようなメリハリあるその授業は、他の正規の教員らの追随をまったく許さぬものでした。

 そのころにはそれほど深く考える事はありませんでしたが、その後、大阪日本橋の数多ある電気屋の一つに勤め、その場所柄、様々なお客様を接客する事になるのですが、次第にある現実を思い知る事となります。電気屋をやっていて最悪なのは、意外な事に極道な人々ではありません。見習いのチンピラさんならともかく、本職の方は、やはりその面子があり年季もありますので、意外と付き合い方さえ覚えれば、後はその行動原理が読めますのでよほどの失敗を犯さぬ限り、かえって色々と商売がしやすかったりします。

 見習いのチンピラさんの難しいところは、その行動原理がまだ定まってはおらず、色々とイレギュラーな要素が多いためです。ま、どこまで突っ込むとか踏み込むとか、引き際などのそのラインが彼ら自身まだ良くわかっておらず、色々できるようになった頃合のころなどは、その様々なテクニックを実践で試しに使ってみたかったりとしますので、そういった部分がこちらとしても色々と行動が読めないイレギュラーな部分となるのです。ま、それもこちらのレベルによりけりなんですけどね。まあ、今となれば、そんなあれやこれやも何だかんだいっても済んだ事、まあ楽しい思い出です。

 ただ、電気屋にはもう一つ、接客するには厄介な職種がありました。閉じられた環境で長い間安穏と生きて来たために、極端なぐらいに世間ずれしておらず、徹底的な世間知らずでその行動原理が読めない上に、普段周りにあがめられる事が当たり前になっているため、非常に傲慢な上に更に尊大な態度のその職種が、何あろう他でもない教師であるのですね。それも、その受け持つ学年が若年になるほどに、その厄介さは、もうはっきりいって手に負えないほどになって行くのです。私も、過去に何度キレかけた事か知れません(笑)。

 閉鎖的で排他的な機関、学校で年がら年中そのほとんどを過ごす事が、一体どれほど異常な人間を作り出してしまうかを、私はそのときになって初めて思い知りました。勿論、全てが全てそうであるわけではないのでしょうが、私が何よりも戦慄せずに居れなかったのが、その受け持つ学年が若年になればなるほど、その世間知らずともいえる極端な、もう異常ともいえるその異常性がより顕著になって行く事でした。

 とにかく精神のその振れ幅が、何かに付けて極端なのです。はっきりいえば、あの一部特定民族に共通する、こちらが強く出れば極端に卑屈になるし、逆にこちらが引けばどこまでも傲慢に、尊大な態度となるのです。その上、突然予想も付かないキレ方をするので、こちらも、こいつ脳がどこかに逝ってしまっているのかしら、と思うぐらいなのですが、私の個人的な見解では、どうやら彼らの共通点として、誰もが異常なまでにストレスに弱いようなのです。

 正味な話し、こんなのが年端も行かない子供たちを教えているのか、と思うと、ゾッとした事が一度ならずありました。彼らは普段接する世界が狭いので、何とかその一人を商売上笑って済むように送り返すと、次にはその紹介で、と似たようなのがまたワラワラ私を指名で訪ねて来たりするのです。商売ですから、仕方なく私も接客していましたが、バックヤードで何度鬼の顔を同僚に晒したかわかりません。いつしか、「いつもニコニコ販売さん、裏にもどれば鬼の顔」などという、変な評語が店で流行るほどでした。

 アレからもう十年近く経っていますが、最近のテレビ報道でやたらと謝罪する教師たちのその姿や、そのもののいい様に、私はあのころより更に事態が悪化している事を痛感しています。勿論、全てが全てそうではないのでしょう。日々努力し、何とか面白くて役立つ授業を、と追及する日々を送る奇特な先生も、この日本にはいるにはいるのでしょう。しかし、いわゆる不良教師のその質の劣化度合いが、あのころよりも更に一層悪化しているのだと私などは思います。

 その意味でも、私は安倍政権の教育改革に期待しているのです。現在の学校教育をもっと開かれた形や制度に造り直し、何より教師自身に、世間では一般的な常識を、当たり前な常識をまず身に付けさせなくてはなりません。私自身書いていて何だか情けなくなって来るのですが、この日本の教師はその何か根本的なところで、あまりにも世間知らずでアフォなのが増え過ぎているのだ、と私はそう思います。能力云々以前に、閉じられたその閉鎖的で排他的な環境に安穏とする、それらの劣化人間なダメ教師をいち早く排除するべきなのかもしれません。

 学校の環境をもっと開かれたものに変える事によって、そういった世間とのズレ、異常なまでに世間知らずな教師を減らせるように、私には思えるのです。ただ、永年その特殊な環境で安穏としてきた連中は、どうせ異常なまでに学校を開かれたものにする事を拒むのでしょうが、そうであるとするならば、それらの人々は、これからの学校教育にはもう不要な人間であるとして、安倍首相には小泉流にバッサリと切り捨ててくれる事を私は期待しています。

 ま、私にいわれるまでもなく、安倍政権はバッサリ切り捨てて行くでしょうけどね。どうせ民主党の支持母体の連中ですし、彼らと子供たちの未来を天秤にかけるほどの事でもないでしょう。必死に文部科学省は、現在のこの学校教育で起こっている事態の沈静化を計っているようですが、書類上の上っ面だけで解決するようなものではありません。亡くなってしまった子供たちのためにも、せめてその死が無駄にはならないようにする事が、今政治に求められている事だ、と私は考えています。

 要らないものは、この際、まるっとまとめて切り捨てる。そんな非情さが、今、この日本には求められているのではないか、と私は思います。ではm(__)m。