鬱で凡愚なド外道のリハビリraki6104’s blog

日々の雑談を、余裕のある時に、できるだけ(´・ω・`)

その果てにあるもの

 相変わらず低調というか、今ひとつ本調子でない日々なのですけど、何よりもまず、ここ最近の日々の稼働時間の短さに、我がことながらいささかウンザリしています。まあ、鬱の基本的な回復時の特色として、そのひとつには睡眠時間の増加があるわけなのですけど、それが一定していれば、例え一日の稼働時間が短くともそれなりに先を読んで計画が立てられるのですが、まあ、そんなに都合良くは人間できてはいませんので、今ひとつ更新が滞っていたりするわけで…いや、もう、今後もちょっと不定期になるとは思いますが、マメに覗いていただいている皆様におかれましては何とぞよしなにm(__)m。

 先日…っといっても、すでにもう一週間がすぎていますが、いつもの定例カウンセリングを受けたその足で、そのクリニックから歩いて本当にすぐ近くの映画館で、以前から凄く気になっていた映画、あの「硫黄島からの手紙」をようやく今ごろになって観ました。まあ、鬱になってからというもの、本当に久しぶりの映画であったわけなのですけど、結構上映時間が長いことが気になっていて、ようやく先日思い切って挑戦のつもりで観たわけなのですが、観てみれば途中脱落するようなこともなく、映画自体も二時間を越える長さをさほど感じない…逆に結構戦争映画に慣れている私的には、ちょっともの足りない感じのする映画でした。

 もちろん、あの映画自体を「父親たちの星条旗」と対を成して企画して、「硫黄島からの手紙」をあくまでも日本側からの視点で、しかもあそこまで安易にお涙頂戴に走らずに、そこで起こったのであろう戦争という狂気の世界を、淡々とした至極中立な乾いた視点で描き切ったのが、「なぜ日本人ではなく、またよりにもよってアメリカ人なのか」というぐらいの良くまとまった良い映画ではあったのですけど、まあ、変に軍事的にマニアックな知識のある私的にはちょっと喰い足りないというだけで、あの映画を撮ったクリント・イーストウッド監督のその優れた手腕と抜きん出た感性にはやはり脱帽するしかありません。いや、ほんと、良くできています。

 おそらく、日本人では、あそこまで中立的な乾いた視点では描けなかったでしょうし、また、観衆にまず訴えるよりも先に、まず考えさせるようなあのような造りにもできなかったような気がします。私などは、いうなればかなりスレた観客ですから、色々と目に付くような部分が結構あったわけなのですけど、しかし、あの全体の完成度を崩さずにそれを解決するような方法は、ま、私ごときには考えも及ばないわけですから、きっと、あの映画のあの完成度がベストであるのでしょう。逆に、安易に良くある画面上のエグさやグロさ、また、派手さ激しさなどに走るようなことなく、ただ、淡々とそこにある戦争という狂気のみを描き切ったことで、かえって我々に多くのことをより訴えかけていたようにも思います。

 まあ、一言でいうならば、やっぱり「戦争は止めようよ」となっちゃうのですけどね(笑)。まあ、当たり前といえば当たり前なわけですが、しかし、この映画に描かれていた栗林中将や西郷らなどの日本兵、日本人らを見て、アメリカ人らの抱く日本人像も若干変わってくるのではないかな、と思います。当たり前なことではありますが、結局、どこにでもいるありふれた同じ人間同士が、あの戦争という大きな狂気の中で、立場は違えど同じように苦しみながら戦っていただけなのですからね。まあ、結果、勝者と敗者には別れたわけですけど、少なくとも我々日本人は、きっとあの戦争で徹底的に負けるべきであったのでしょう。もし、あのとき負けていなければ、きっとどこぞの国のようにどこまでも突っ走って、気が付けば、最期はあれよりももっと悲惨なことになったかも知れませんからね。

 まあ、世界を見回すと、無理を通して道理を引っ込めんとする輩がほんとに多い昨今ですけど、その結果、一体彼らはその果てに何を手にするのやら。ちょっと考えれば、すぐにわかりそうなものなんですけどね(溜め息)。それでも、彼らの脳内お花畑全開のホルホル脳の中では、いまだに絢爛豪華で酒池肉林な妄想がどこまでも拡がっているのかも知れませんけどね。まったく、迷惑な話です。ではm(__)m。