鬱で凡愚なド外道のリハビリraki6104’s blog

日々の雑談を、余裕のある時に、できるだけ(´・ω・`)

どこまで行っても、どん詰まり(笑)

 雨のせいか、今日もやっぱり、昼過ぎごろまでは起き上がることが出来ませんでした…orz。もしかすると、ミクロ的には、緩やかに上下する欝の波の下限に入っているのかも知れませんが、マクロ的には、やはり鬱の波の上限部に位置するようで、多少眠りが余分目には必要ですが、それ以外については、割と調子は上向きにある自覚があります。ま、身体にかける負荷を少し緩めれば、騙し騙し行ける、と思っています。

 で、話は変わるのですが、起き上がれなかった間に薄ボンヤリと考えていたのですけど、共産主義と民主主義を比較した場合に、単純にその優劣を考えると、現実に、多くの民主主義国が先進国に名を連ねていることからも、民主主義国の方が、共産主義国独裁国家に比較して圧倒的に豊かであることが証明されるわけですが、これはやはり、共産主義独裁国家と違って、民主主義国が多くの価値観の存在を認めて、多くの意見を合意の下に集約出来る部分にあります。

 それが民主主義の利点であり、同時に、これはその欠点でもあるわけですが、共産主義や独裁に比較して、それゆえに決定までの時間が必然的に多く必要となるわけですけど、どんなに歪んだ形であろうとも、世界の平和な時代が続く限りにおいて、この「時間がかかる」ということは決定的な欠点とはなり得ないことがわかります。逆にいえば、共産主義や独裁は、その決定までの時間がそれに関わる人々が少ないからこそ短いわけで、これは、世界が動乱の時代においてこそ民主主義に対してのアドバンテージを発揮できること、といえるでしょう。

 つまり、民主主義とは、試行錯誤のための時間を充分使える平和な時代でこそその真価を発揮し、また、共産主義や独裁は、モタモタしている余裕のない動乱の時代でこそその真価を発揮する、ともいえるわけです。そう考えると、現在、世界各国間で争われている問題が少し見通しやすい風景に見えてくる、と私などには思えます。少し言葉を変えると、膨張主義を取らずに平和の中で富国を考える民主主義と、そして、膨張主義を取って動乱の中で富国を考える共産主義と独裁、ともいえるわけです。

 以前にも、このブログで書きました………確か書いた、と思うことなのですが、世界の平和というのは、我が日本国においても、そして他の民主主義国においても、特に、この経済のグローバリゼーションの…世界規模に拡がる時代においては、世界の平和の下における安全な…何に阻害されることない自由な貿易こそが、自国発展のためにはぜひとも必要な環境であるわけです。そのためにこそ、そのために必要なシーパワーの確保に多大なコストを、世界の民主主義国が現在まさに割いていることは皆様も良くご存知でしょう。

 先進民主主義国にしてみれば、よほどの理由がそこに存在しない限りは、戦争という、国家間の政治的問題に決着を付けるためのその一手段を用いることは、単純に、それに掛かる膨大な戦費という巨大なコストを支払うことを考えた場合にも、文字通りの最後の手段として、我が日本国の自衛隊のように「抜かずの名剣」としていつまでも温存しておくことが望ましいわけです。なぜなら、戦争という手段は、物理的な金銭コスト以上に人的コストや社会に与える悪影響のコストまで勘案すれば、それは、べらぼうに馬鹿高いコストを支払うことになるからです。

 しかし、現在、共産主義や独裁を選択した国家、その中でも他国を侵略すること…膨張主義によって国力の増強を図る国々にとっては事情は変わります。端的にいえば、それは共産主義や独裁を選択した自業自得であるわけなのですが、かの国々では、多様な価値観の存在を認めていないことでしかその体制を維持できませんので、自然、ものの考え方が単調で無個性な人民や国民ばかりを輩出しやすいのですが、それは、国家としての多様性をも失うことにもつながり、もしも悪循環の輪に一度ハマると、そこから延々と抜け出すことが出来ない、という致命的欠点を抱えることになります。

 現実に、彼らはいい訳しようもないほどにその国家運営に失敗してしまったわけで、それは、限られた一部のエリート層の価値観と能力だけでは、現実には不可能とも思える、いわば世にいう天才を常に多数輩出し続けれなければ、かの国々のシステムを維持運営することが適わないことを如実に証明しています。つまりは、たった一人の天才に国家運営を任せたところでいずれは限界が来るし、そして支配を継続することも難しいのですが、普通の凡才の底上げ…教育の充実を図って出来るだけ多くの層の人々が、継続的に社会システムの改善を地味に積み重ねる方が安全だし確実である、ということです。

 しかしこれは、今まで散々人民や国民からの「搾取」という既得権益を貪って来たエリート層にとっては、これまで行って来た「愚民教育」の放棄は、即座に自らの命運を自ら断つことにも等しく、他でもない、彼ら自身が一番手酷い改革の痛みを文字通り容認せねばならないことになり、それは、他人の痛みをあくまでも他人事として放置して来た彼らにとっては、最低最悪の一番耐え難い痛みでもあるわけです。ま、現在、彼らは、真の指導者であるか否かを自らの失敗のその積み重ねによって、今や、抜き差しならないその状況下で試されてもいるわけです。

 偏狭な愛国心を煽って、彼らは、人民や国民のその深刻な不満の方向を自らから逸らしていましたが、今や、それにも明らかな限界が見て取れます。多くの人民や国民らが抱く、「なぜ我々は、いつまでも貧しいままなのか?」や「少しでも豊かになりたい」、そして、「この惨めな様はいったい誰の責任か?」というそのまさに虐げられ続けた怨嗟のような人々のその思いに、彼らは、未だ明確なその答えを提示すること出来ないで居ます。一部特定勢力と私が呼ぶ、彼らの国々は、現在そんな有り様なのです。彼らは、その根本的な戦略を一刻も早く改めなくてはなりません。

 我が日本国同様に、彼らもまた、富国…国家の繁栄と発展を戦略的に目指していることには違いがないのですけど、しかし、そこに至る手段、その方法論には決定的な違いがあり、そして間違いが存在しています。富国とは、今の時代それを他国から盗んだり奪うのではなく、自国に育てて…育んでこそ価値がある、というそのことに、彼らは早く気付くべきでしょう。………ま、そんなこと承知の上で、彼らは奪い取ること、「戦争」こそを選択するのかも知れませんけどね(溜め息)。いざ戦争となると、我々民主主義国は、本当に怒って戦争するから恐いのですが、彼らにとっては、自らの目先の利益こそが一番ですからね…orz。不毛だなー(遠い目)。ではm(__)m。