鬱で凡愚なド外道のリハビリraki6104’s blog

日々の雑談を、余裕のある時に、できるだけ(´・ω・`)

無駄な上に有害…orz

 相変わらず、調子の良くない日々を送っているのですが、今日に限って、なぜかポッカリと、まるでエア・ポケットにでも出くわしたように鬱の負荷が軽くなり、さらに鬱に悪影響を与えていた花粉症もなりを潜めています。ま、だからこそ今、こうやって更新しているわけなのですけどね(笑)。これが続いてくれるとありがたいのですけどね(溜め息)。

 前回、


伝えるべきを伝える


ことがマスコミはできていない、と書きましたが、これは本来、情報の最終的な受け手である我々日本国民にとってのニーズに応えていない情報の発信、それはすなわち、狂ったイデオロギーに基く邪教のようなカルト思想に満ち溢れん世界や社会の現出を夢見て、また、あくまでもマスコミにとっての利害に適した歪んだ世論の形成とその誘導のため、そして、それらをさらに容易にするための我々日本国民の愚民化に向けた日々のたゆまぬ情報の隠蔽や偏向、そして歪曲などの情報操作など、それらはあくまでも、マスコミ自身の利益ためにこそなる情報を発信したものであり、それらは微塵にも我々日本国民の本来のニーズに沿うものではありません。

 「伝えるべきを伝える」前に、単に「伝える」というさらに根源的でシンプル極まりない言葉があるわけですが、それはすでに、ネットの登場とその急速な普及に伴って「完璧」とはいえないまでも、極めてそれに近い状況が現在の日本社会にはすでに生まれ出ているわけです。彼らにとって残念なのは、この情報の多様化と複雑化を受けて、すでに、既存メディアのマスコミはそのほかの雑多な情報の洪水…勿論、文字通りそれらは玉石混合なのですが…の前に、あえなく埋没してしまったことでしょう。つまり、それでもなお、普遍に必要とされるための存在理由や意義を、彼らは、我々日本国民に対して提示する事が出来なかったわけです。恐らく、今の業界の構造を維持する限り、結局、この先も状況に変化は見られないでしょう。

 彼らの存在意義は「伝えるべきを伝える」…つまりは、玉石混合の雑多な情報の海の中から、お客様で情報の消費者である我々日本国民のニーズに合わせた情報をピック・アップ…拾い出し、それをさらにより我々が理解しやすく加工すること、つまり「編集」することにありました。しかし彼らは、その「編集」を我が事の為に悪用するその誘惑に耐えられずに、今や、その誤った「編集」の仕方こそが彼らのビジネス・モデル…商売の形、そして業界の構造に組み込まれてしまっているわけです。まさにネットの登場以前は、「編集」の悪用は文字通り「濡れ手に泡」の状態で荒稼ぎのし放題であったわけですが、しかし、ここにネットの急速な普及に伴って、彼らが長年独占してきた「情報」という商品が、今や一定のコストを支払うことで、誰もが簡単に加工前、「編集」前の一次情報に触れることが可能な環境となったわけです。

 誰も彼もが一次情報に触れることが可能となれば、つまり「情報」の独占体制が崩れ去った今の状況下では、それは、彼らが独占してきた「情報」の「編集」もまた広く一般に開放される事となり、それによって「情報」の「編集」の極度な多様化、つまり「編集」の一般化や多彩化いう、多様な価値観によって「編集」自体が広く一般の中でおおいに日々比較検討され、また、常に切磋琢磨される時代に入ったわけです。以前であれば、決まり切った枠内だけで競争していた…というよりは、実際は単なる談合だったわけですが…ものが、一気にその枠が広がる、というよりも、その枠自体が取り払われてしまったようなもので、自然そうなれば「編集」行動自体が激しい競争に日々晒されてしまいます。ま、いわゆる「編集のグローバリゼーション(世界規模化)」というとおおげさですが、それでも、その従来の規模からの巨大化のイメージとしてやニュアンス的にはこの方がわかり良いのかも知れません。

 いわずと知れたことですが「グローバリゼーション(世界規模化)」とは、その業界が、確実に今までよりも拡がった分の、その規模に応じた激しい競争の波に否応なくさらされることでもあります。つまり、何をするにしても、己の存在意義をアピールするためには今まで以上のものが要求されるのです。その意味で考えれば、彼らの行う誤った「編集」によるビジネス・モデルにも、それをとことん極めてしまえば、そこに強烈極まりない個性を発揮して熱狂的なカルトのような存在意義を発揮する事は確かですが、それが、情報の受け手である、例えば、我々日本国民のニーズに即したものでない以上は今までのような規模のビジネスは到底成り立たず、彼らが、今まで同様の規模のビジネスを続けるためには、彼らにしか出来ない、しかし日本国民に広く受け入れられる「編集」のオリジナリティを打ち出すか、或いは、至極真っ当な「編集」、自らのためには悪用する事のない、極当たり前に「情報」の消費者である日本国民のためにこその「編集」に徹するかの二つぐらいしかないでしょう。

 ま、今までの自らのために悪用する、談合のぬるま湯に浸り切ったゆるゆるのビジネス・モデル体質のままでは、やたらとコストだけが馬鹿高いだけで、中身のない、必要とされない「編集」加工された「情報」だけでは、このネット情報化社会の中では当然必要とされることもなく、ただ、その他大勢の雑多な情報の中に埋没するだけの事です。コストが高いということは、単純に、社会にかかる負荷がそれだけ大きいことにもなりますし、また、やたらと設備だけは整っていますから、その声だけがやたらと大きいということも考え合わせると、「本当によく存在を許されているな(笑)」とも思います。ただ単に、未だ多くの日本人が、ネットの持つその有用性にまだまだ気付いていないからなのでしょうけど、この先、時間の経過と共にゆっくりとですが、しかし確実に、彼らはこの日本社会から必要とはされなくなるのでしょう。

 私が考える限りでは、すでに彼らの存在は、その「速報性」と、そして比較検討としてのその基準やきっかけとなる、「ある種の例文」として以上の意義はもう見出せません。ぶっちゃけた話、それですらも、単に彼らが一応存在しているからネット上で今でも利用しているに過ぎず、なければないで、いちブロガー・レベルの信頼できる定点観測ネットワークでもあれば、下手をすると、そのレベルの簡単な組織にすらも現在のマスコミは明らかに劣っているのかも知れない、とも思えます。思えば、我が日本社会は、中身のないこんな価値のないビジネス・モデルに、よくぞこれだけの馬鹿高いコストをかけている、と感心します(笑)。ネットの存在が、そして、それを使う個々のネット・ユーザーの皆さん一人一人が、日々、彼らの存在を脅かしつつあるわけです。彼ら既得権益層にすれば、我々ネット・ユーザー、ブロガーをひっくるめたネット自体を、できることなら今すぐにでもこの世から削除したいのでしょうけどね(笑)。ではm(__)m。