鬱で凡愚なド外道のリハビリraki6104’s blog

日々の雑談を、余裕のある時に、できるだけ(´・ω・`)

それゆえに2

 前回エントリーを仕上げるのに、ブログにアップする手間の時間も含めて合計でおよそ四時間弱、都合二日かかりましたorz。ま、しばらくはこんな感じだと思うのですが、御訪問頂いている皆様におかれましては何とぞよしなにm(__)m。

 前回、私は、


「我が日本国における左派やリベラルは、そこに在る(居る)だけで害悪」


と書きましたが、これは共産・社会主義そのものを頭から全て「まるっ」と否定しているわけではありません。リベラルについても、その本来意味するところの「自由主義」を完全に否定するつもりもありません。もっとも、我が日本国におけるリベラリストリベラリズムは、明らかに海外のそれとは違い、共産・社会主義者と共に「左派」と一まとめにしても問題がないとは考えています。つまり、私は、我が日本国における現在の共産・社会主義「者」や、同じく、日本版限定の自由主義「者」らこそが、そこ…つまり我が日本国に存在するだけで害を成す存在である、と考えているわけです。

 このブログを奇特にも、訪れてくださっている皆様方の多くがすでに周知の事実とは思いますが、ここで改めて申し上げますれば、以前…もはや随分と昔の事ですが…私は長い間ガチガチの極左でありました。当時勤めていた会社の同僚として、来日したひとりの中国人老師にその「教え」を説かれるまでは、の話です。私的に衝撃的であったその「教え」に打ちひしがれた私は、ある一つの疑問を胸に抱くに至り、その疑問を当時の同志であったり、先人たちに対して問うたわけですが、結局、そのときの色々、その全ての出来事が現在、私の先に述べた考えを今もなお、確かに裏付け続ける貴重な経験となりました。ま、不快極まりない苦い記憶ではあるのですけどね(笑)。

 当時、現在ほどに豊かではありませんでしたが、それでも、それなりに共産・社会主義国家のその内情、実情は漏れ伝わってきていました。ベルリンの壁崩壊、ソヴィエト連邦崩壊、中国における改革のいわゆる「解放運動」を経て、私は中国人老師との出会いを果たすわけですが、私的に当時衝撃的であったその「教え」ですが、それによって私が抱いたシンプルで、しかし、当時の私にとっては非常に深刻であったその疑問、問いは


「かの国々(の共産・社会主義)との(我が日本国における共産・社会主義との)違いは何か?」


というものでした。未だ、中国人老師の「教え」が信じられず…というより、当時の私は単に信じたくなかったのですが(笑)…に、一るの望みを仲間と信じていた人々へのその問いに賭けたわけですね(笑)。

 アレからすでに、はや二十数年の時が流れましたが、今現在に至るも、私にその違いを教えてくれる人物は誰も現れてはいません。その多くが、まず「話」…議論にすらもならないのです。ときに、かろうじて討論のようなものにはなった記憶がありますが、詭弁を弄し、話を摩り替えるだけの「立て板に水」式…ちょうど現在の政府与党のような…のどこにもその根拠のない、単にそう言い張っているだけにしかすぎませんでした。その内、彼らのその本性が露わとなる出来事が頻発し、もしあの時、私自身から彼らから離れる決心をしていなかったら、正直、今で言うところの「友愛」もあり得たのかも知れません。時代的に、未だそんな事件が実際に在り得た頃で、ましてや、ここは物騒で全国に名高いかの「大阪」ですからね(笑)。生駒の山もあれば、大阪湾もあるわけで、その気にさえなれば、けして今ほど難しい事でもなかったでしょう。

 今にして思えば、何もそんなに難しい事ではなく、今現在の彼らがそうであるように、嘘と欺瞞でその場を凌ぐ事は彼らにもできたのでしょう。それでも、彼らがそれを為し得なかったのは、動かし難い現実を体現していた老師のその存在が幾重もの意味で大きかった気がします。私一人であるならば、単に、ありふれた行方不明者「1」にしかすぎませんが、中国人である老師となればこれは話は別です。当時、老師が来日してさして間もない頃ですし、また、その後になって老師は帰化されますが、すでにその係累の存在がありましたから、とてもではないですが完全、完璧な隠蔽は望むべくもありません。私が彼らから離れたことを幸いに、結果として、彼らは全てを忘れ、無視、黙殺する事にしたようにも今は思えます。何せ、騒ぎになればなるほどに、彼らのその立場を危うくするものでしかない状況でしたからね。「狗」の立場なんて、結局、その程度にしか過ぎないのです。危うくなれば、真っ先に、躊躇なく切られるわけですね。

 現在の政府与党のその迷走振り、従来マスコミのおっかなびっくりの腰の引けた、しかし、そ政府与党を擁護はしたい本音が透けて見えるその報道振りにせよ、彼ら、我が日本国における「左派」に権力を渡すとどうなるかが如実に動かし難いその現実として表れています。一言でいうならば「選民主義」とか「人治主義」、くだけていうなら「ボクちゃん特別主義」とか、もう少し格好をつけて「ダブル・スタンダード主義」とかですかね。ま、そのいずれにしても碌なもんじゃありません。我が日本国おける「法治」を、彼らは日々、自らのその言動によって否定し続けているわけです。「法治」とは、なんびとであれ、法の前には平等である事がその原則です。つまり、罪を犯せば、それが誰であろうとも法の名の下に、そして平等に罰せられるわけですが、彼らは自らに便利な正義を振りかざして、その罪と罰から逃れようとしているわけです。

 犯罪者の総理、犯罪者の与党幹事長、犯罪者の与党議員、それを日々擁護する従来マスコミとその御用識者たち、擁護は幇助と言い換えても良いでしょう。つまり、彼ら全てが「犯罪者」のカテゴリーでまとめられるわけです。さて、なぜ誰も、誰一人として彼らを我が日本国における「左派」として、或いは、中国やロシア、北朝鮮将軍様やその他諸々の数多の独裁者たち、その政権や国家の行っている事と同じ、この我が日本国の「人知主義国家化」をその声を大にして叫ばないのでしょうか? その答えは、私にはあまりに簡単で単純に思えます。なぜならば、彼らにとっては、それこそをが自らの望むべき社会であり、理想であるからです。かの独裁国家群の指導者層のように振る舞い、己が独善に酔い、多くの国民を愚かな人民として、かの国々のように日々その富を絞り、踏み付けにし、踏み躙りたいのでしょう。なぜならば、彼らこそは選ばれ死…もとい、選ばれし「選民」、エリート様であるからです。


馬鹿じゃね?(´・ω・`)


 そう思いたい気持ちはわかりますが、これは仮定の話ではなく、今、現実に、我々多くの日本人のその目の前で現在進行中の出来事です。勿論、それを阻止する手立ては法にかなう手段に限っても数多あり、法を外れれば無数にあるのも確かですが、だからといって、それで安心して良い事では微塵にもありません。少なくとも、彼らは過去の誰よりもその高い頂に現実に、現に今、近づきつつあるのは確かです。まあ、確かに、その足元の崖っぷちが日々深くなりつつあり、そして今にも崩れようともしていますがね(笑)。今、この時を、すでに過ぎ去った過去の事として、振り返れる後世の人々をとても羨ましく私は思います。彼らの嘘と欺瞞に満ちた、根拠や事実などの裏付けのないそれのみに賭けた彼らのその行動の顛末を、他人事として分析や批評できますからね。ひるがえって、とてもではないですが我々はそうは行きません。何せ、現実に誰もがその当事者であるわけですから、結局、彼らの散々荒らした後を片付けるのは他ならぬ我々自身なのです。まったく、はた迷惑な話ですけどねorz。ではm(__)m。