鬱で凡愚なド外道のリハビリraki6104’s blog

日々の雑談を、余裕のある時に、できるだけ(´・ω・`)

再生への切っ掛け15(そして再生へ9)

 うーん、相変わらず低調な毎日を送っています。気分は上って来ないし、気晴らしに散歩でもしようとすると雨であったり、今もそうなのですが昼夜生活が見事に逆転していたりです。鬱の本などによると、陽の光に当る事は精神的にも身体的にも幾重にも良い事だ、なあんて書いていたりもするのですが、どーもこう、物事の巡りがこういうときに限って上手く働きません。いや、ま、無理にでもそういった方向に切り換えれば済む事なんですけどね。あー、ヤレヤレ(溜め息)。

 えー、繰り返しになるのですが前回までの話をちょっとまとめますと、現在の学校教師とは基本的に「井の中の蛙、大海を知らず。しかして空の深さ知る」ような、スタンド・アローンな一昔前の職人のような個々に孤立状態で仕事をしている職業であり、時代も今やネットの時代を向かえ、個々の才覚に応じて自らのスキルを磨くような奇特な教師も、まあ、日本国中探せば結構いるのかも知れませんが、せっかくそうして磨き抜いて来た長年の経験と蓄積された知識に基くその教育技術も、今の教育機関のままでは、世間や武術界でも昨今問題となっている技術の継承が非常に断裂しやすい、そんな危機的状況にあるわけですね。

 で、本来であるならば、文部科学省のような教育の大元がそれを防ぐべく、世間では良くある研究成果発表の機会である「学会」などの形で、個々の学校の教師個人の研究成果を統計的なシステムの中で吸い上げ、再びその頂点である文部科学省から全国津々浦々の学校や教師らに向けてフィードバックする仕組みが必要であるのです。しかし、日本教育界の癌である『日教祖』の『不当な支配』を振りかざした長年の歪んだ論理の積み重ねもあり、また、『履修偽装』や『虐め』の問題にも見られるように隠蔽と虚偽の報告の、文部科学省、各教育委員会、各学校、各教師のすべてがグルであり、そのアフォな小役人根性全開の教育機関全体の病的な体質改善には相当な時間が要するわけです。

 また、社会情勢の悪化により、より規範意識の薄い家庭で育った規範意識の希薄な子供たちが増え、更にはその子供たちをこれまた規範意識の薄い多くの教師らが教育する事のその悪循環と、その規範意識の希薄な多くの教師らが自らに都合良く年度ごとのクラス変えを運用する事により、延々問題が先送りされる事によりただヴァカみたいに放置されて隠蔽され続ける事により、現在の学校はいわゆる『モラルハザード・スパイラル』の状況に陥っていると見て良いでしょう。当然、教師らの多くは自ら招いたその状況に振り回され、教育技術の研究どころか授業ですらまともに行う事がままならずに、更にはあの『ゆとり教育』によって無理で雑な授業進行を強いられて、どこまでもどこまでも『モラルハザード・スパイラル』に落ち込んで行く事となるわけですね。

 で、私はそれらを打開する一手として、一クラス40人体制のクラスを受け持つのに、また、従来の教師のスタンド・アローンな環境を知識と経験に基く教育技術の継承の観点からも、現在学校教育を蝕む『モラルハザード・スパイラル』を打破するために複数の教師がグループ、チームで一クラスを管理する教師の2マン・セルや3マン・セルを妄想したわけです(笑)。但し、この体制を現在の学校教育に組み込むには、平日に学校を平然と休んで座り込みするいわゆる左翼教師、また、同和枠で学校に潜り込み、人権を振り回して平然と闇専従するいわゆる人権教師、それらに「ウリも〜♪」と平然と乗っかる外人枠や通り名を活用するいわゆる一部特定民族教師などの『社会の害悪』連中を弾くためにも、現在の制度を変更する事が前提になるでしょう。

 ま、2マン・セルや3マン・セル導入には、能力的にヘッポコな教師は勿論の事なのですが、今現在教育機関に寄生するいわゆる『社会の害悪』教師を、教育機関から弾けるだけの教育制度の改革が必要となるのですね。なぜなら、いわゆる『社会の害悪』教師は基本的に制度を悪用する事しか考えてはいませんからね。今現在の教育機関の現状を見ればわかりますけどね。それには、最低二つの制度の改革が必要となるでしょう。一つは現在の教員給与制度を、実際の学校における勤務日数を直接毎月の給与と賞与に反映させる。もう一つは、学校における問題などの情報を隠蔽していた事が発覚した場合、連座制で複数の教員らに罰則が及ぶような教員に対する罰則制度の新設ですね。この二つだけは絶対に欠かしてはいけない、と私などは考えています。

 できれば、より明確な免職制度が同時に設けられれば効果は絶大なのですが、ま、これはそうそう簡単にはいかないでしょうね。それでも、現在政府与党は教育改革の一環として教育委員会の実権を握る教育長の権限を縮小し、教育現場を預かり、マスゴミにも問題発覚のたびに槍玉に挙げられ晒し者となる校長の裁量を拡大する方向で検討に入っていますから、近い将来には自らの意に沿わないような教師らへの罰則適用や、或いは、免職なども校長個人の裁量で履行できるようになるのかも知れません。校長は現在、その権限はほとんどないにもかかわらず、その責任だけはしっかり押し付けられている状態ですから、これは当然の事でしょうね。しかし、さすがに個人裁量での免職までは無理ですかね。せいぜい、教育委員会への人事移動要請ぐらいかも知れません。

 で、話を戻すのですが、教師の2マン・セルや3マン・セルは現在のスタンド・アローンな教師らの蓄積された知識と経験、それらに裏打ちされた教育技術の継承促進の観点から、また、個々の教員に対する負担の軽減とそれに付随して負担の軽減に合わせた、それに見合うだけの人件費の削減と、そして何よりも、あの『モラルハザード・スパイラル』の大きな要因の一つである雑で無理な授業進行を緩和するためにも一刻も早く担当教員を増やし、生徒らに対するよりきめ細かい目配りを行える体制を早期に確立するためであるのですね。更に、できるのならば…というか、ぜひやっていただきたいのですが、『虐め』問題に関しては一クラスだけの狭義な問題とはせずに、学年ごと、学校ごとの責任問題とする事が望ましいでしょう。

 こと、『虐め』問題はできるだけ狭い範囲でだけで取り扱うのではなく、学年ごとで、できれば年度内に解決を目指し、それでもダメなら次の学年と継続して取り扱い、学校ごとの生徒の卒業までの間に完全解決を目指す、というような大きな視点で取り組まれねばなりません。現在学校では学年主任がどうなっているのかは知らないのですが、学年主任は基本的に3マン・セルとして遊撃、ゲリラ的に『虐め』問題に学年ごとに取り組み、更には教頭や校長も戦力として投入するぐらいの気構えがなくてはなりません。そして、それでも解決に向かわない場合は『虐め』のグループを隔離して指導する、名前は何でも良いのですが仮に『特修クラス』としましょうか、を設けて、それでも更生する事がない場合には警察力に頼る『ゼロ・トレランス』も仕方ないでしょう。

 要は、いわゆる『虐め』問題は、『虐め』を行うその連中に、『虐め』は割には合わないものだ、といち早く彼らに認識させ、一刻も早く思い知らせる体制作りが望まれるのですね。ま、基本ですけどね、これは。それらと同時に、小学校低学年の基礎中の基礎を徹底して生徒らに教育し、いち早く規範意識を醸成する事によって、その後の脱落、不登校や中途退学を減らすためにも小学校の低学年のときをターゲットに、この教師の2マン・セルや3マン・セルをいち早く実施するべきだ、と私は妄想ホルホルしているのです(笑)。学校の基礎を学ぶ、この低学年時に早期に教師らが生徒ら、そのクラスを完全に掌握し、早いうちから中身の濃い授業をみっちり行う事がかなえば、その後の問題はそのかなりが軽減されるでしょう…と思うんですけどね。

 うーん、まとめそこないました。長くなりましたので続きは次回に。妄想はまだ続きます(笑)。っと、いう事で、ではm(__)m。