鬱で凡愚なド外道のリハビリraki6104’s blog

日々の雑談を、余裕のある時に、できるだけ(´・ω・`)

彼らこそ正真正銘の(笑)24

 インター・ネットの登場と、その中で日々、無意識の内に多様な知識と見識深めた多くのネット・ユーザーらの登場は、今後、さらに増える事はあっても減る事はありません。以前からの繰り返しとなりますが、現在の我が日本国の現状は、一部の人間が多くの日本国民を騙し続け、本来日本国民が得るべき利益を掠め取っている構図が、インター・ネットの登場により、また、小泉政権の登場によって、広く日本国民にその事実が周知されつつある途上である「過渡期」にあり、しょせん、彼らが弄するものが単なる嘘や欺瞞である以上は、一時、その流れを遅らせたりする事はできたとしても、その進行自体は止められる事が出来ません。

 その意味で、私のいう「金と権力の狗」の連中が現在やっている事は、しょせん、負けの決まった戦いの悪あがきともいえる、少しでも敗北を先延ばしせん、とする「撤退戦」にしか他なりません。その根拠として、つい最近出来事である静岡知事選と東京都議会選は、大変興味深い結果を残しています。その結果は、静岡知事選が保守候補を先に担ぎ上げ、逃げる民主党が、後発の左派候補を担ぎ、自民党の必死の追い上げを接戦で交わして勝利し、東京都議会選では、民主党は味方であるマスコミの完全支配の下、「政権交代」のスローガンにより自民党に勝利しましたが、その反面、単独過半数を獲得するほどには勝ち切れませんでした。つまり、この結果は、狗の面々らが志向していたほどの勝利には、結局、結果がつながらなかった事を如実に証明しています。

 日々報道される、マスコミによる偏向報道によって騙される人々が多いことは確かですが、その一方で、偏向報道に容易に騙されない、日本マスコミに対するある種の免疫を持つ人々が、ネット・ユーザーらの地道な活動と共に確実に増えつつあるわけです。特に、多くの企業がマーケティングの基礎とする、日本国民の標準ともいえる静岡県民が、今回の知事選のような結果を出した事に私は注目しています。異例ともいえる高いその投票率、党派を無視すれば保守派が勝利し、負けたとはいえ、その差が約一万票にまで迫った与党のその組織力。これらの事から、以下の事柄が考えられます。

1・現在の有権者らの選挙へのその関心の高さ

2・党派ではなく、候補者そのものへの有権者らの関心の割合増加

3・与党と民主党の持つ、その組織力の高さ

 項目1、並びに3については、両党に大きな差はありません。後発の分だけ、やや自民党が上回るぐらいでしょう。今回の明確な違いは項目2にあり、左派政党たる民主党が保守派候補を掲げ、保守政党たる自民党が左派を掲げた事が、民主党の勝因であり、また、同時に自民党の敗因であることがわかります。つまり、これは有権者が党派を離れ、候補者そのものへの関心を高めている事を表しているわけです。

 我が国における一般的な左派に対して、これまでの彼らのその所業から、有権者らが彼らを選挙において避けている事は、現在の国政において、左派を掲げる政党のその凋落振りからもうかがえます。何より、地震災害の危機感の高い静岡県において、あの阪神淡路大震災での、自社さ連立の左派政権によるその失態の記憶は、拭おうにも拭いきれないものがある事でしょう。危機においてイデオロギーを優先し、あたら多くの人命を現実に損なう事を考えれば、とてもではないですが、過去に実際、その負の実績のある左派候補には投票できないでしょう。今回の知事選が接戦であったのは、単に民主党が、かつての社会党議員を多く抱える左派政党である事実が、未だに浸透していない面もあるのでしょう。自民党にしても、当時政権与党であったわけですから、とてもそれを前面に押し出しては選挙を戦えないでしょうし、現実に、自民党にも左派は大勢潜り込んでいますしね。

 我が日本国における左派も、しょせんイデオロギーは、国家の支配や運営の手段にしか過ぎない事を自覚し、国益、ひいては国民全体の利益を何より追求する事を選んでくれたなら、恐らく、今の私は明確な保守派を名乗る事もなかったでしょう。残念ながら、我が日本国における左派の面々は、その多くが、単にイデオロギーに狂っているか、この極東における、他の4国の影響下にある狗にしか過ぎません。彼らにとって、日本国のその国益を追求する事は害悪であり、何ら得るべきもののない、無駄以外の何物でもありません。彼らの、その病んだ頭の中には、国家には永遠の友と敵がいて、それをイデオロギーで色分けするような、そんな誤った思考が定着しています。ましてや、我が日本国は、あろう事か法治の名の下に民主主義と資本主義によって繁栄し、この極東アジアにおいてトップを走っています。彼らにとって、これは許されざる事態であるわけです。そりゃあ、精神障害も起こすでしょうね。

 ま、いずれにしても、左派であれ右派であれ、極端に振り切ってしまっては国が滅ぶ事は、ソ連の崩壊や、今回の米国発の金融工学危機においても明らかです。キーワードは「野放し」でしょうね。共産主義においては、官僚の過度の「野放し」状態による腐敗が問題となり、また、資本主義においては、その基本である商業活動、金儲けの過度の「野放し」が、いずれの社会そのものを痛めつける事が証明されたわけです。結果として、我が日本国が長年採用していた民主主義と官僚主導の社会主義経済の組み合わせが、期せずして、ある程度の正解であった事が証明されたわけですが、同時に、それによって「野放し」であった官僚組織が腐敗し、左派の、そして金と権力の狗の巣窟となり果て、日本社会の癌となっている事も当然であるわけです。同じように、法に守られ、過度に「野放し」であった日本マスコミにおいても、同じように腐敗は進行し、また、左派の、そして金と権力の狗の巣窟と成り果てています。

 民主主義も、或いは、共産主義社会主義も、まだまだ歴史の浅い未熟な制度です。今後も紆余曲折しながら、互いの良いところを吸収し合って改良を重ねて行かねばなりません。もっとも、共産主義はさすがにダメでしょうけどね。プロレタリアート独裁とかいうなら、まず、愚民政策をやめない限りは未来はないでしょう。そうでなければ、単なる帝国主義の新たな器にしか過ぎませんからね。その意味では、そもそも左派リベラルな制度が悪いわけではなく、それを、己が帝国主義を、欲を成すための便利な道具として活用する人間が問題、ともいえるのかも知れません。しかし、我々人間から欲がなくなったとき、果たしてそれは人間と呼べるのかは、はなはだ疑問です。そう考えれば、やはり、民主主義と資本主義を基調として、そこに社会主義の良いところだけを加味するのが一番であるわけです。その意味で、過度の「野放し」状態である、我が日本国における癌の二代巨頭には、早々に枠を嵌める事が重要ですね。何せ、そこに社会主義の、そして人類社会の暗部が凝縮していますからね。

 もう、真っ黒のドロドロ(´・ω・`)。ではm(__)m。